1936年 2・26事件「下士官兵ニ告ク」


これは,近衛兵を長い間やっていた(注1)父の遺品(写真帳)のなかに貼り付けてあった2・26事件のときに撒かれたビラです。父が言うには(注2),「鎮圧のため,部隊展開したときに,道に落ちていたので拾ってきた」のだそうです。父の部隊は,「反乱」側ではなく,鎮圧側に回ったようです(注3)。 (拾った)ビラを廃棄するよう部隊から指示が出たようですが,そのままポケットにしまい,持ち帰ったと言ってました。この伝単は歴史の本によく掲載されている飛行機を使っ て空から大量に撒かれたと言われるもの(飛行機ビラ)と違って,「2月29日 戒厳司令部」という署名はありませんし,活版印刷ではなく,ガリ版刷りです。混乱する現場で実際に 効いたのは,こちらのガリ版刷りのものなのでしょうね。分裂した近衛師団のなかで,このような「伝単」が,どのような仕方で散布されたのでしょうか。父は本当 のことは何も語りませんでした。

父は,いつも自分の年を数えるときに,10歳差し引いて数えていました。他の方に比べ,恵まれた軍隊生活であったようですが(注4),おそらく他の方達よりも多くの人の死に立ち会いました。父にとって貴重な10年間の青春が奪われました。戦後の一時期,カトリック教会に熱心に通い,「うたごえ運動」に夢中になっていた父の姿を思い出します。(2009年5月6日 記す)

注1)インドシナ半島で英国軍の捕虜になり,戦後,武器と弾薬を英国軍に返してもらい,その上,大量の食料を分けてもらい帰国するまでですから,気の遠くなるほど長い間です。

注2)父は1982年に亡くなったので,ずっと前の話です。

注3)事件に加わったのは赤坂に駐屯していた近衛歩兵第3連隊の一部のようですが,父は九段下に陣を構えていた別の近衛の聯隊に配属されていたようです。

注4)野戦重砲兵第8連隊(近衛師団;東京世田谷三軒茶屋)から立川陸軍病院勤務を経て,九段下の近衛師団本部へ(ここで226事件に遭遇),そして翌年,支那事変で近衛混成旅団として中国へ,さらに鉄道第9連隊でインドシナ(ビルマ,タイ)へ。

(下に示したのは jpg 画像ですが,PDFファイル版は,ここをクリックしてください



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